キッチンの壁にかけてあるカレンダーは、去年の冬に近所の文房具屋で買ったものだ。
シンプルな白地に黒い数字。予定を書き込める余白が広く、派手さはないけれど、見やすくて気に入っている。
月ごとに違う風景写真が載っていて、今月はラベンダー畑の写真だ。紫の波のように咲き誇る花々が、朝の光を受けて柔らかく輝いている。
このカレンダーは、私の生活のリズムをそっと支えてくれている。
朝、コーヒーを淹れるとき、必ず視線を向ける。
今日が何日で、あと何日でゴミの日か、誰かの誕生日か、仕事の締切か――
そこに書かれた小さな文字が、その日の私の動きを決める。
昔、子どもの頃のカレンダーといえば、家のリビングにかかっていた大きな紙のものだった。
母が赤いペンで「遠足」「運動会」「父の出張」などを書き込んでいて、
それを見れば、家族の予定がすぐに分かった。
行事の前日は、カレンダーに丸をつけて「あと○日」と書き込み、ワクワクして眠れなかったのを覚えている。
1枚めくるたびに季節が進み、年末には束になったカレンダーが紐でまとめられていた。
母は「記念に取っておこう」と言いながら、結局は春の大掃除で処分していたけれど、
めくったページの間には、その年の家族の記憶がぎゅっと挟まっていたように思う。
社会人になってからは、カレンダーの使い方も変わった。
スマホのアプリでスケジュール管理をするようになり、紙のカレンダーは「部屋の飾り」になった。
それでも、壁に何もないのは落ち着かなくて、毎年必ず1冊は紙のカレンダーを買う。
アプリのカレンダーは便利だ。通知もしてくれるし、色分けもできる。
でも、壁にかかった紙のカレンダーの前に立って、ペンで予定を書き込む瞬間には、
スマホでは得られない“実感”がある。
予定を書くというより、「その日を未来に固定する」ような感覚だ。
たとえば、「友人と会う」「旅行へ行く」「家族と食事」。
その一行を書き込むたびに、まだ来ていない日が、少しだけ近くに感じられる。
逆に、終わった予定に線を引くときは、小さな区切りをつけたような安堵がある。
カレンダーは、未来と過去の間にある。
まだ来ていない日と、もう過ぎてしまった日が、同じ紙の上に並んでいる。
その間を、私たちはゆっくりと、しかし確実に進んでいる。
あるとき、去年のカレンダーをめくって見返してみた。
そこには、びっしりと予定が書き込まれていた。
仕事の会議、友人との食事、病院の予約、両親の結婚記念日。
中には「映画」「花見」「鍋会」など、ただの楽しみの予定も多かった。
でも、2020年の春から夏にかけてのページだけは、ほとんど空白だった。
あの年、世界中で多くの予定が消えた。
その真っ白なカレンダーのページは、私にとって忘れられない“記録”になっている。
予定がない日が、こんなにも広がることがあるのだと、初めて知った。
でも、その空白があったからこそ、後に書き込まれた小さな予定が、どれほど大切だったかを思い知った。
今年のカレンダーは、例年より少し大きめのものにした。
理由は、予定のほかに「その日の一言」を書き込みたかったからだ。
「晴れ、洗濯日和」
「スーパーで桃が安かった」
「仕事で小さな達成感」
そんな他愛のないことばかりだ。
でも、それを続けていると、カレンダーが日記のようになっていく。
めくるたびに、その日の空気や気持ちが思い出される。
たとえば、3月15日の欄には「梅が咲き始めた」と書いてある。
その一行だけで、冷たい風の中に漂う春の香りや、空の明るさまでよみがえる。
カレンダーは、単なる予定表ではなく、記憶のカプセルみたいなものだ。
来月の欄には、赤い丸で囲まれた日がある。
その日は、大切な友人の結婚式だ。
久しぶりに会う友人たちと、笑って話せるだろう。
その予定を見るたび、胸の奥が少し温かくなる。

カレンダーは、未来の楽しみを日常の中に忍ばせてくれる。
忙しい毎日の中でふと視線を向けたとき、その赤い丸が小さなご褒美のように輝いて見える。
年末が近づくと、新しいカレンダーを選ぶ季節がやってくる。
それは、私にとって「新しい時間の器」を選ぶ作業だ。
その器に、どんな予定や言葉が並ぶのかは、まだわからない。
けれど、その白いマス目は、これからの一年を受け止める準備ができている。
毎年、最後のページをめくるとき、少しだけ切なさがある。
書き込まれた文字、丸、線、シール。
そこには、もう戻れない時間が詰まっている。
でも、その切なさと同じくらい、新しいカレンダーを壁にかけるときには、わくわくもある。
新しいページには、まだ何も書かれていない。
それは、可能性のかたまりだ。
来年のカレンダーには、どんな予定を書き込むだろう。
どんな言葉を残すだろう。
そのページをめくる未来の私が、笑っていられるように、
今日もまた、壁のカレンダーに小さな予定を書き込む。
カレンダーは、ただの紙ではない。
私にとって、それは「時間を可視化する窓」であり、
過去と未来をつなぐ、静かな日記帳だ。